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のんびり山などを歩きながら 目に入ったものをパチリパチリ。そんな写真による記録。

◆『言葉ふる森』…山と渓谷社・編


山と渓谷』の07年1月号~09年3月号に掲載されたエッセイ集。

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それぞれの中にある
山の思い出・記憶、山を歩いている時に感じること、山への思い・・・
などなど。

 

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目に・心に とまった言葉も中から いくつかを。

 

その時、私の脳裏に浮かんだのは、
それより十年ほど前、ヒマラヤのアンナプルナ・ベースキャンプで氷河の谷の縁に立ち、
山から流れ出す最初のひと滴をこの目で見た時のことだった。
高山の澄んだ空気を突き抜けてくる太陽は、じりじりと氷河を溶かし、
氷はこの世のものとは思われない恐ろしい響きを立てて割れる。
轟音が、見渡す限り広がる谷に、いつまでもこだましていた。
その氷河の突端から、絶え間なく流れ落ちるひと筋の水。
それが、聖なる大河ガンジスの最初のひと滴だった。

(  『はじめのひと滴』…寮 美千子 )

 

 

マタギたちと一緒に歩く山々は、
残雪から岩場へ、岩場から沢へ、沢から藪へ、そして再び残雪へと、めまぐるしく足下が変化する。
・・・・・
マタギたちの歩き方は、微妙な表現になるが、きわめて柔らかい。
・・・・・

一日に最低でも二十キロメートルは山々を駆け巡るのであるが、
最近は日帰りでクマが捕れるようになったのでずいぶん楽だと彼らは笑う。
・・・・・
彼らマタギと一緒に山を歩いてつくづく感じたのは、
普通の登山とはまったく違う、ということであった。
細かな技術の違いもさることながら、
マタギたちの山歩きは、人間側の都合で組み立てられるものではない。
あくまでも主役は獲物となるクマのほうだ。
クマの都合に合わせて人間側が動いていくのである。

( 『山が持つ二つの貌』…熊谷達也 )

 

 

 

人は変わる。変わらねば生きのびられない。
こう書いてしまうといかにも人生訓めいた響きを帯びて、みずからの意志で自分を変えてゆかねばならないかのように勘違いされてしまうかもしれないが、そうではない。
実際は、状況に合わせて生きのびているうちにいつのまにか自分が変容してしまっているのだ。

( 『山を書く』…南木佳士 )

 

 

山を歩くとからだが外へ向かって開いてゆく。
自意識で凝り固まった「わたし」が木の香や風に溶けてゆく。
・・・・・
下界では起こりえない、自然そのものを媒介とした精神と身体のダイナミックな交感。
「わたし」はおにぎり一つで急に元気になる「からだ」でしかないのだと体感するすがすがしさ。
いつしか山への依存が生じ、休日の前夜になると知らぬ間にザックに雨具を詰め込んでいる自分がいた。

( 『山を書く』…南木佳士 )

 

 

 

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どうして山の入り口には神様や仏様が祀られているのか。
それは日本の伝統的な考え方では、自然自体が神であり、山自体が神だったからだ。
神の本体は自然なのだから、神には姿も形もない、空である。
山に自然の姿をみるとき、山が神になるだけである。

( 『民衆史のなかの山』…内山 節 )

 

 

自然はそうして、そこにあるだけ。
わたしたちは、そこに勝手な意味を見つける。
それでもなぜ、人が山に登るのかは、依然、消えない疑問である。
だいたい、美しい風景って何なのだろう。
なぜ、美しいと思い、心が震えるのか。

( 『山が呼ぶとき』…小池 昌代 )

 

 

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私自身、まさか自分が山歩きに夢中になろうとは思っていなかった。
その時その時 心が反応する方へと進んでいくうちに、
山に向かうようになったのだ。

なぜ、山に行くんだろう?