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のんびり山などを歩きながら 目に入ったものをパチリパチリ。そんな写真による記録。

◆『ぼくの出会ったアラスカ』…写真・文:星野道夫

 

何だかモヤモヤとした心の状態が続いていたときに手に取ったのは、
星野さんの写文集。

何冊かのエッセイ本によって構成された本。

 


星野さんの本は、
私にとって、何度でも繰り返し読みたくなる本だ。





 

 

今の自分の心にとまった文章をいくつか。

 

人生はからくりに満ちている。
日々の暮らしの中で、無数の人々とすれ違いながら、私たちは出会うことがない。
その根源的な悲しみは、言いかえれば、人と人とが出会う限りない不思議さに通じている。

 

 

ぼくにとってのアラスカは、これらの家族を中心に広がる人々の輪の中にあった。
彼らはぼくの知らなかった暮らし、価値観に生きる人々だった。
物質的な世界からかけ離れ、これだけ自由に、これだけ豊かに生きている人間がいる。
彼らとの出会いは、ぼくに人が生きてゆく多様性について考える機会を与えてくれた。

 

 

エスキモーのクジラ漁はリードという自然から与えられた束の間の小さな海があるからこそ成り立つ。
人々はただ自然に生かされているのである。

 

 

あらゆる生命が、ゆっくりと生まれ変わりながら、終わりのない旅をしている。

 

 

日照時間が最も長い夏至は、冬へと向かう最初の日でもある。
この日を境に、日照時間は少しずつ短くなるのだから。
本当の夏はこれからなのに、ある者は冬の在処を感じ始めるだろう。
それはやはり、動き続ける太陽をいつも見つめているからだ。
人々は冬至を境に春を思い始めるように、夏至もまた不思議な気持ちの分岐点である。

 

 

風のように自由な精神を持つシリアとジニーからぼくが受けたもの、
それは、人生を肯定してゆこうとするエネルギーだった。



思い続けた夢がかなう日の朝は、どうして心がシーンと静まり返るのだろう。

 

 

早春の北極圏は、毎年違う川沿いの残雪や水位の状況でセスナがどこに着陸できるかもわからなかったが、誰もそんなことは心配していなかった。

シリアもジニーも、何が待っているかわからないアラスカの自然に生きてきた。
大切なことは、出発することだった。

 

 

ぼくは、ふと、“思い出”ということを考えていた。
人の一生には、思い出をつくらなければならない時があるような気がした。
シリアもジニーも、その人生の“とき”を知っていた。



この数年の二人の会話の中で、これまでとは違う気配に気づくこともあった。
誰もが、それぞれの老いに、いつか出合ってゆく。
それは、しんとした冬の夜、誰かがドアをたたくように訪れるものなのだろうか。

 

 

ゴムボートの下から伝わる水の感触、飛び散る水しぶき、移り変わってゆく風景・・・
何年も語り合った約束の川を、今、私たちは手にしていた。
シーンジェニックの流れは優しく、水は水晶のように透きとおっていた。
川が大きく曲がるたび、北極の原野もゆっくりと回ってゆく。
水の流れに運ばれて旅をしていることで、私たちはこの壮大な自然に属していた。



子どもから大人へと成長し、やがて老いてゆく人間のそれぞれの時代に、
自然はさまざまなメッセージを送ってくれる。

 

 

ウィリーには、初めて会った瞬間に、強いスピリチュアルな何かを感じていた。
風のようにひょうひょうとして、まったく陽気な男なのに、
彼の美しい視線はいつも相手の心の奥底を優しく見透かしていた。
その美しさはある深い闇を越えてきたまなざしでもある。
ウィリーはベトナム帰還兵だった。



南東アラスカの太古の森、悠久な時を刻む氷河の流れ、夏になるとこの海に帰ってくるクジラたち・・・
アラスカの美しい自然は、さまざまな人間の物語があるからこそ、より深い輝きを秘めている。
母親のエスターも、息子のウィリーも、時代を越えて、同じ旅をしているのだと思った。
きっと、人はいつも、それぞれの光を探し求める長い旅の途上なのだ。

 

 

ほとんどしゃべらない寡黙なボブに、自分が探し求めていた、目に見えぬある世界を感じ、
ぼくは少しずつ魅かれていった。

 

 

ぼくはその中に混じって働くボブを見つめながら、
この世界をほんの少しずつ良いものへと変えてゆく不思議な力のことを考えていた。



「ボブ、植物にも魂があるのかな?」
「当たり前さ・・・薬草を採りにゆく時、自分が本当にきれいにならないと、薬草が自分を見つけてくれないんだ・・・
 子どもの頃、おばあさんに何度もそのことを言い聞かされた」



ある事情でハワイに移り住んだ友人に、“アラスカを離れて一番悲しいものは何か”と聞いたことがある。
彼は迷わず答えたものだ。「季節だよ、この土地には季節がないからね」と。
人は、めぐる季節で時の流れを知る。心に区切りをつけることができる。

 

走りゆく夏は名残惜しい。
けれども、少しずつ厳しくなる自然が、私たち穏やかな気持ちに満たしてゆくのはなぜだろう。
それは、どこか雨の日に家で過ごさねばならない伸びやかさに似ている。
冬がもたらす気持ちの安らぎも、きっとそういうことなのだろう。



「もうそろそろだね、何だか匂いがするよ」
「あっという間にやってくるさ。いつだってこっちの気持ちの準備ができる前にね」
そう、アラスカの冬はいつもある日突然やって来る。
マイナス50度まで下がった朝の、キラキラと宝石のように輝く大気の美しさを想像できるだろうか。
身も引き締まるような冷気に嗅ぐ、まじり気のない透きとおった冬の匂い。
心を浄化させてゆくような力を、この季節はもっているのかもしれない。



いつか友人が、この土地の暮らしについてこんなふうに言っていた。
“寒さが人の気持ちを暖かくする。遠く離れていることが、人と人の心を近づけるんだ”と。



ルース氷河の源流は、4000~6000メートルの高山に囲まれた岩と氷だけの無機質な世界で、
夜、満天の星空を見上げているだけで言葉を失う。
地球とか、宇宙とか、人間とはいったい何なのかを、
ルース氷河の夜はシーンとした静寂の中で問いかけてくる。

 

原野の暮らしにあこがれてやってくるさまざまな人々。
しかし、その多くは挫折するか、わずかな期間の体験に満足してやがて帰ってしまう。
この土地の自然は、歳月の中で、いつしか人間を選んでゆく。
問われているものは、屈強な精神でも、肉体でも、そして高い理想でもなく、
ある種の素朴さのような気がする。



同じ場所に立っていても、
さまざまな人間が、それぞれの人生を通して、別の風景を見ているのかもしれない。


本を読み終えたとき、
窓の外では チラチラと雪が降っていた。